竹里館雑記
心に移りゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつけていくものと思し召しください。
Archives ( 2005-09 )
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長いこと更新をサボっておりました。といいますのも、以前に書いたように23日から27日まで実家に帰省しておりまして、戻ってきてからも塾の授業やらその準備で大忙しでちょっと更新できる状況ではありませんでした。今日から心を改めて毎日更新できるようがんばりますので宜しゅうに(笑) さて今回の帰省で大活躍したのがiPod shuffleです。前回書いたように友達のお祝いでもらったものだったのですが、快適な移動時間が過ごせました。 毎回長時間の移動をどのようにして過ごすかが課題なのですが、今回は音楽を聴きながら、大好きなミステリ小説を読むという空前絶後の理想的な環境で帰省できました。もはや帰省の目的などそっちのけで、この時間が永遠に続けばいいのにと思ってしまいました。 というのも帰省の目的は就職の報告だけなので、後は毎晩飲み歩きだったのです。高校時代の同じ部活の男たちで会って麻雀。翌日は幼馴染と飲み会。そのまた翌日は高校時代の女友達と飲み会とカラオケ。 はぁ…こう書いただけで遊びほうけた連休だったことが窺われます。色々と印象深いこともあったのですが、特に私が通っていた高校が今年度から移転し、新校舎になったのでそれを見に行くついでに旧校舎も見てきました。本当は旧校舎は敷地内も立ち入り禁止なのですが、部室だけ少し拝見させていただきました(ごめんなさい。校舎内は入っておりませんので)。 そこは「当時のまま」でした。もちろん雑草は生い茂り、用具は何もない状態でしたが、それでも「当時のまま」だと思いました。私の先輩が書いたいたずら書き、私や友達が書いたいたずら書きもそのままでした。そこには確かに私の高校時代の残滓があり、「私が存在した」のでした。 汚いプレハブ小屋の4畳もない部室でしたが、そこは何物にも代えがたい「私」が感じられる場所でした。 よく「自分探し」ということを聞きますが、まだ見ぬ未来にあてどもなく探すより、実は過去にこそ今の「自分」を成り立たせ、また悩ませるものもあるのであり、その「過去」へと探したほうがいいのではないでしょうか。思いで巡りは決して後ろ向きな行為ではなく、どこかで前へとつながる行為な気がしてなりません。 そんなことをふと思いながら、友人と飲む酒はまた格別でした。今回はやたらノスタルジックな内容でしたが、これもまた帰省の副産物ということでご容赦を。 | |
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明日から実家に帰省しますが、そんな今日我が家にビッグなプレゼントが届きました。大学時代の友達が、公務員合格のお祝いとしてiPod shuffleをくれたんです この場を借りて改めてお礼! あ~り~が~と~う~ プレゼントももちろん嬉しいですが、何より自分の歩む道のりの一里塚を人に祝福してもらうことって本当に嬉しいものです。 早速使い方をマスターして明日は音楽三昧の一日を過ごしたいと思います。 | |
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本日は午前中から塾の準備で、補習もあったために早めに出勤。明日が終われば連休なのでもうひと踏ん張りです。連休を使って父方の実家に帰省しますが、主な予定は高校時代の友人との飲み会になりそうです。7年近く会っていない友人もいるので楽しみです。 さて現在恩田陸『六番目の小夜子』を読んでいますが、なかなか面白くてはまっています。数年前にドラマ化されたようですがちょっと見ておけばよかったかなと後悔中。ちょっと引用するので未読の方はご注意ください。 私がハッとした部分がありまして、それは登場人物(男の子)の一人が友達4人で過ごす夏休みを次のように表現した箇所です。 「四人で過ごす夏は『パーフェクト』な感じがした。もちろん雅子と一対一でつきあいたいとは思っていたものの、それよりもこの四人で過ごすことの方が、何か特別で大事なことであるような気がした。そして、こうして四人で過ごせる最高の時間がほんの少ししかないことも、彼は心のどこかで承知していた。たとえ四人が大学生になって再会したとしても、もう二度とこんな一体感、この四人がいるべき場所にいるという、世界の秩序の一部になったような満足感を味わうことはないだろうと。」 長々と引用しましたが、彼のこの眼差しは私には「現在」へと向かっているとは思えない、むしろくすんでセピア色になった「過去」へと向かっている一種のノスタルジックな眼差しに思えてなりません。しかし彼はまさしく今自分が存在するある夏の日を見てこう言っているのです。そして続けて恩田陸は、 「それは、なんとなく四人がそれぞれに感じていたことだった。」 と、この眼差しを四人が共有しているといいます。四人が一緒にいることが「パーフェクト」に「世界の秩序」に合致すると感じるためには、彼らに漠然としてでも彼らの世界に対する全体的視点(感覚)がなくてはならないはずです。そしてそれは成熟し大人になっていく過程で、反省的視点として獲得されるものです。本来的に子供が父や母との単線的な関係の中で自我を確立し、やがて友人、教師などの他者のネットワークの中で複線的な関係を確立していくとすれば、その成熟の結果として「全体」と「自己」の「パーフェクト」な一致も実感されるはずでしょう(念のために付け加えますと、幼児にとっては母との関係が<全体>でしょうが、「全体」ということは意識されないが故に「成熟」ということを条件と考えたわけです)。 学校という狭い集団の中にまだまだ留まる彼ら四人は、しかし「世界」と「自分たち」の「パーフェクト」な一致を見て取っています。これは彼らが既に自分たちの生きている「現在」を反省的に、つまり「過去化してみる視点」を手に入れた「成熟」した存在だということに起因するように思われます。だからこそはかなくしっかりとした形を持たない「現在」が、「過去」として眼差しの内におかれることによって「パーフェクト」な形を持ったものとして意識されるのでしょう。 恩田陸の作品の奇妙な怖さは、「子供の怖さ」ではなく、「子供の姿を持った成熟した大人の怖さ」なのでしょう。 | |
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今日は塾の同僚の先生とお酒を飲んできました。お互いに酒好きなので時々一緒に飲むのですが、どうしても男二人なのでオッサン臭くなってしまいます。まあ、それはそれで楽しいのですが…。 日本酒では埼玉の「文楽山廃」を初めて飲みました。辛口のなかなかに飲み応えのある日本酒で、料理を選びそうな印象を受けました。 午前中は時間が空いたので読み始めた『ラカン』を読み進める。割と読みやすいのは助かります。特に症例研究は興味があります。まだ読み始めたばかりなのでよく分かりませんが、ラカンとカントを対比させるという論点はジジェクがやっていますが興味深いテーマになると思いました。特に『純粋理性批判』の弁証論とラカンの関係は面白いテーマが出てきそうです。 | |
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午後から塾だったため、午前中はのんびりと過ごす。以前読んだ『オペラは二度死ぬ』のときにも書いたが、よく分からないラカンについて少し調べるために毎度お世話になっている講談社の現代思想の冒険者シリーズの『ラカン』を読む。まだ初めしか読んでいないので感想はなし。どうもラカンの著作には二の足を踏んでしまう。周囲の難しいという感想が理由。 しかしどうも気分が乗らないので、気分転換にJ.S.バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータを聴く。ナタン・ミルシテインの独奏。この人の演奏の最大の魅力は硬質な音だが、バッハには合うと思っている。世評の高いシェリング盤より数倍いいと思うのだが。シェリングは柔らかく、包み込むようだが、私はバッハにはそういう音は求めていないからかもしれない。 塾から帰宅して今は恩田陸『六番目の小夜子』を脇においてブログ作成中。今晩は少しじっくり読むつもりです。 | |
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先日録画したオペラの「魔笛」を観る。王立コヴェントガーデン劇場の公演。演出はそれほど斬新ではないが、サー・コリン・デイヴィス指揮のオケはよかった。歌手も聴き応えがあった上に、なにより演技がよかった。個人的な印象ですが近年のイギリスのオペラ劇場の公演は質が高いように思います。なぜでしょうかね。 「魔笛」という作品は統一した視座からの解釈が難しいと当時から言われていた問題作です。確かにさまざまな要素(古代神話、ドイツ民話、フリーメイソン思想など)が混在していて、それをどのように統一して解釈するのかは難しいでしょう。以前書いた「救済」「許し」という視点では、もちろん一部は解釈可能ですが、統一的に解釈できないでしょう。 しかし見ていて面白い作品であることには間違いないと思いますね。御伽噺のロマンチックな要素もありますから。有名な「夜の女王のアリア」をぜひどのように歌手が歌うのかを見るだけでも価値がありますよ。 | |
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今日はお昼から塾での補習。夏期講習中に教えた生徒の成績が思いのほか伸びていないことにいささかショックを受け、地理を重点的に教える。どうにか成績が上がって欲しいです。もう一人の生徒は定期テストが近いのでテスト対策。こちらは思いのほか上手くいきそう。がんばれ。 帰宅して今日の晩御飯はなぜか豚シャブでした水菜、白菜、舞茸、豆腐をたっぷりと入れて、かなりバランスのいい食事で満足満足 夜はひたすら『成熟と喪失』を読む。あと20ページぐらいなので明日には読み終わる予定。夜に読む小説として恩田陸『六番目の小夜子』(新潮文庫)を準備。以前彼女の『三月は深き紅の淵を』(講談社文庫)を読んでいて、別の作品を読みたいと思わせる作家だったので購入しておいたのを今回読もうと思います。また順番が入れ替わってしまった 今日は久々にブルックナーの交響曲8番を聴く。CDはシューリヒト指揮VPOのEMI盤です。久々のブル8でしたが、イン・テンポがこの指揮者の最大の特徴ですね。でもVPOはやはりブルックナーに合うオケだというのは再確認できてよかったです。 | |
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三連休がほぼ塾の授業で埋まってしまった伊達眼鏡です。なのにまだ準備が出来ていなくてかなりあせり気味の伊達眼鏡です。 あ~あ、本当は美術館と映画に行く予定だったのに、夏休みの補習ということで計画がつぶれてしまいました 現在読んでいる江藤淳『成熟と喪失』から感じることは、戦後日本にとっての大問題と少なくとも江藤が考えることは日本人の「個としての自立」は可能か、可能ならどのような形でなされるべきか、それとも「自立」は不可能であり、またなされるべきではないのか、といった問題のように感じます。これって現在の保守論壇をにぎわしている問題ですが、江藤はこの意味で保守本流といえるのでしょう。 哲学を研究していた私などからすると、まず「個人・個とは何か」という点が気になりますが、どうも文芸評論家という人々はその点を問題視しないようですね。 江藤は「成熟」は日本においては「母」との密接な関係下にある「子」がその関係を「喪失」することだと喝破します。これは日本独特であるとすると、江藤の「個人」の「成熟」もまた西洋と日本では違うことになりますが、それはひいては「個人」という概念そのものの文化相対主義へと帰結します。しかし江藤はあくまで「個人」を西洋と日本共通の土俵で論じようとします。それが根本的に成功したのかどうかは私には判断がつきません。 しかしひとつだけ言えるのは、江藤は奇妙に切迫した危機感をこの問題に見ているということです。それを宮台真司のように江藤の西洋コンプレックスというにはいささか鬼気迫るものがありすぎるような気がします。おそらく江藤は西洋型近代を経験していない日本には、通常の意味での(=西洋型の)個人が成立せず、それが近代、ひいては現代日本を問題化し相対化する決定的な視座を確保できない原因と考え、それを自身の課題と引き受けたのではないかと私は理解しています。 この読みを確認するためにもしばらく付き合わなくてはいけない評論家だと思います。 | |
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さて先ほど塾が終わって同僚の先生たちと飲みに行こうとしましたが、あえなく断られてすごすご帰宅。明日は補習などで早めに塾に行かなきゃならないし、予習もしなくちゃいけないので早めに寝ます。 今私の住んでいる地域で「Dr.コトー診療所」の再放送がやっていてそれにはまっています。面白いので観てない人はぜひ観てみてください。それでは退散します。 | |
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今日は用事があって午前中から池袋の某教育関係の会社へ。綺麗な職場に多少気負いつつ用事を済ませて帰宅。本当は渋谷の美術館へ行きたかったのですが、時間もないのでまっすぐ帰宅しました。 今日の晩御飯は秋の味覚の秋刀魚と納豆と胡瓜をスティック状にして頂き物の味噌をつけて食べました。納豆はちょっと工夫をして、おろしニンニクと卵黄とネギを入れて食べます。これかなりいいおかずになるのでお勧めですよ。 夜ニュースを見ていると仕事から帰宅した妹が選挙について「比例代表制って何?何で名簿の後ろの方の人が当選するとこんなに騒ぐの?」と聞いてきたので、しばらくその説明。ドント式の簡単な説明もする。一応政治の勉強もしてきた人間としてはこれはきちんと説明できなくてはなりません。兄の威厳を見せたろうではないの!説明は無事に終了しましたが、この前一緒に選挙に行ったのに…「妹よ、大丈夫か?」 | |
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今日の夜は気合を入れて料理をしました。グリーンサラダを香草とあわせて作って、ドレッシングもオリジナルを試行錯誤で作りました。そしてメインは豚肉のひれ肉でピカタを作り、ソースはドミグラスソースを作りました。スープはオニオンとトマトのスープです。いやかなり気合の入ったメニューでした。 味のほうは気合に比例しており大満足。ところで今日料理をこれだけ気合を入れてしたのは、久々に江國香織さんのエッセイを読んで料理魂に火がついたためです。彼女の小説やエッセイって本当に料理が美味しそうに書かれているんですよね。料理の描写が上手くて美味しそうなのは、池波正太郎ですね。『剣客商売』『鬼平犯科帳』シリーズの和食の描写はたまりません。 | |
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昨日は昼間はひたすら読書で、夜はテレビの選挙特番に張り付いていたので更新できませんでした。 いや~今回の選挙は面白かった。不謹慎かつ無責任な感想かもしれませんが、実感として最も多くの国民が感じた感想ではないでしょうか。緊迫感あふれる郵政法案採決劇に始まり、小泉氏の劇場型と揶揄された刺客戦法で盛り上がり、小泉自民党の歴史的大勝利というエンディングまでまさしく一大スペクタクルでした。 確かにマスコミや野党が言うとおり問題のある選挙だったのかもしれません。しかしこれをもって日本の民主主義が成熟してないと発言する人々は、いったい何を持って「成熟」といい、「正しい民主主義」というのでしょうか?ハンナ・アレントを持ち出すまでもなく、かつての階級社会・近代初頭の市民社会ならば「問題意識を持ち積極的かつ持続的に政治参加する市民」を期待できたかもしれません。しかしこと19世紀後半以降の大衆社会の民主主義とは、まさしく今回我々の目の前で展開された劇場型民主主義ではないでしょうか。そして今回のように無関心・傍観者だった人々が、少なくとも観客として面白がり、いつの間にやら投票という形で劇場の舞台の上にあがったのは、私はよいことのように思います。 さて今回の小泉劇場はこれにて終幕となるのか、それともこれは第一幕に過ぎないのか。面白がって見続けるということ、それも民主主義だと私は思っております。いかがでしょうか。 | |
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『グリーン家殺人事件』を読了。最後は一気に読み終えましたが、この作品は後半ほど面白いですね。個人的にはクイーンの作り出した探偵役のクイーンやドルリー・レーンよりファイロ・ヴァンスが好きですね。やっぱり衒学趣味なのかなあ。二階堂黎人や麻耶雄嵩も好きだし。探偵の推理部分が余り長くないのも好感が持てました。しかしいわゆる「屋敷もの」「どろどろとした血縁もの」としては日本の横溝作品などのほうが理解しやすく面白いと感じます。やはり欧米と日本の違いはありますね。 引き続き読み始めたのは久々文芸評論で江藤淳『成熟と喪失-"母〟の崩壊-』(講談社文芸文庫)です。以前から彼の愛弟子である福田和也の作品で彼のことを読むたびに、一度は読みたいと考えた文芸評論家です。読んだことがあるのは、彼の自殺によって図らずも注目された『妻と私』(文芸春秋)だけでした。まだ冒頭を読み始めただけですが、彼の妻に対する並々ならぬ愛着(あえて「愛」とは言わず「愛着」と書きたい感情なのです)は、この作品(『成熟と喪失』)における母子論から意外と理解されるものなのかもしれないなと思いながら読んでいます。 それにしても福田も自己の作品を文芸評論としながらも、それ自体として自立した作品としようとした評論家ですが、江藤はそこまで望んだのでしょうか?福田は江藤の追悼評論集『江藤淳という人』(新潮社)においてサイードの「今日では批評こそが古典的小説の性格を帯びている」という言葉を引きながら、江藤をその先駆的実行者に擬していますが、私にはむしろそれは小林秀雄にこそその役割は相応しいように思います。念のために申し添えると、これは小林と江藤両者の優劣の差ではなく、批評というものに対する彼らの定義の違いだと思います。 福田は自分の恩師を自分の進まんとする道の先駆的存在者として己に擬制することで、彼の正統的後継者を任じようとしているのでしょうか。福田はよく文壇を担っていく覚悟のようなことを発言しますが、はたしてそれほど彼が担わなくてはいけない状態なのでしょうか。 いささか内容が脱線しました。批判めいたことを書きましたが、現在文芸評論を書かせて福田ほど面白く書ける批評家がいないのも事実ですし、実際彼の自立した作品としての批評は読み応えがありますので一読を進めます。『甘美な人生』『奇妙な廃墟』は傑作だと思います。 さて明日は総選挙投票日。まじめに政治参加してこようと思います。 | |
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総選挙も最終盤で各候補者ともにますます熱のこもった演説をしていますが、よく聞かれる「庶民感覚を持った政治家」「庶民の痛みが分かる政治家」といった発言に少し疑問があります。 それは「政治家は庶民的であっていいのか?」という疑問です。「庶民」ということが何を指すのかまず曖昧ですが、ここでは定義上「日々の生活に多少の不満はあるが、差し迫った経済的危機に直面しているわけではない人々」としておきましょう。このような人々の多くは、いわゆる無党派層であったり、何らかの支持政党があっても政治問題に積極的かつ持続的に興味を示し続けることはまれだと思われます。 つまり私は「政治」と「庶民」という言葉は余りなじまないものだと考えているわけです。上記の発言に含まれる意味は、「庶民感覚がないもに増税の痛みが分かるのか」という「庶民的経済感覚論」に代表されますが、これはおかしいでしょう。極論すれば私は「ナポレオンを理解するのにナポレオンである必要はない」という立場から、政治家は庶民である必要はないと思っています。もっと言えば庶民であっては困るとすら思っています。 「庶民」の増税の痛みは、感覚や雰囲気で理解するのではなく、「庶民」が選挙を通じて政治家に伝えればいいのです。不満なら一票を投じて増税に賛成した政治家に意見を突きつける。それが民主主義の根本であり、ルールであったはずでしょう。 「庶民の政治化」は望ましいですが、「政治の庶民化」はマクロ的視点で諸政策に携わる政治家にはあってはならないと思います。少なくとも私はこと外交や国防に限って言えば「庶民的政治家」に任せたいとは思いません。 | |
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今日は塾が長引き先ほど帰宅。6時間ぶっ続けで授業するとさすがに疲れます。その準備で4、5時間前から動いていたのもあったので、さすがに今日はお疲れモードです。 それにしても今日は暑かった。どうしたんですかねこの気候は。秋の夜長の話をブログにちょこっとだけ書きましたが、「秋」らしさなんてどこにも無い気がするのは私だけでしょうか。 今日はこの後『グリーン家殺人事件』を読み進めて早めに寝ようと思います。この話昨日から急速に面白くなってきているので、出来れば一気に読みたいところですがちょっと無理なので少しずつです。 それでは今日はこの辺で。 | |
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今日は塾の先生との飲み会で帰宅が遅くなりました。マンションの近くに素敵なお店を教えてもらったので、ちょくちょく利用しようと思います。 今日のヒット商品は泡盛「美ら島」です。ロックでいただいたのですが、すっきりしていながらもしっかりとした味わいの泡盛でした。芳醇なものこそ真の泡盛と考える人には少し物足りないかもしれませんが、試しに飲んでみたい人にはお勧めです。 今日は二度目の更新なのでしっかりしたことを書こうと思いましたが、このほろ酔い加減を大事にしたいのでもう寝ます。台風地域にいらっしゃる皆さんはお気をつけて。 | |
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毎朝少しブログをチェックするのですが、そうしたら友達のブログに嬉しいニュースが! 彼は大学時代の後輩なのですが、なんと公務員に合格したとの報告が。実際には先日電話をいただいていたのですが、やはりきちんと合格通知を受け取っての報告だったので嬉しかったです。 彼のことは以前ブログにも書いたのですが、非常に事柄を冷静に・複眼的に見る人です。これは勉強とかで身に着けたというより、彼自身の色々な経験できっと身についたものなんでしょう。かつて16世紀のフランスの哲学者デカルトは著書『方法序説』で「文字による学問」から「世界という大きな書物」への雄飛を説きました。彼の旅の話などを聞いているとまさにこの一説にぴったりな生き方だと思って惚れ惚れします。 私ももっとフットワークを軽くしていきたいなあ、と朝から思ってしまったしだいです。 | |
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今日は大河ドラマ「義経」で壇ノ浦の戦いを放送したので、なんとなく『平家物語』を読み返していました。ついでにこれまたなんとなく古典文学熱が沸き起こり、『徒然草』『伊勢物語』『更級日記』の気に入ったところ気ままに再読。 高校生の頃はひたすら苦痛でしたが、いまは気楽に読めるのは何ででしょうかね。おそらく文法をいい加減に読んでいるからでしょう。でもいわゆる自分の使う日本語を相対化できるという意味で非常に優れた教材なんですよね。 そういえば明治期の文豪も外国文学と格闘する中で、「自分の言葉」つまり日本語の「口語体」を確立していきましたよね。鴎外も漱石もそうでした(彼らの場合漢籍の教養も無視できませんが)。時代は下り、川端康成や谷崎潤一郎や三島由紀夫もやはり相当な外国語との格闘があったといわれます。あの一般的には「日本的」といわれる川端作品、谷崎作品が外国語への翻訳が多いことから彼らがいかに外国語を意識していたかがうかがわれます。 今日はふとしたきっかけで古典文学に触れた一日でした。古本屋で安く買えますから、お勧めの暇つぶしですよ。 | |
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さて本日は妹と買い物に出かけました。彼女は洋服と鞄を目当てに、私は目的もなく付き添い(笑)いや、シスコンじゃないですよ。 洋服を見るのは好きなので、女性の買い物の同伴も結構楽しめる性格です。なもんで、ホントは別行動の予定だったんですが一緒に女性物のショップを色々とめぐりました。 もう秋物が出揃っていて、秋冬のファッションが好きな私としては楽しめました。やっぱり女性の服のほうが男性の服より色々とデザイン的にも面白いですね。 妹は目当ての鞄と衝動買いのニットを無事に(?)購入して大満足のご様子。私も色々と見たのですが、ちょっと決めかねたので何も買わないで帰宅しました。 帰宅後はひたすら読書。『オペラは二度死ぬ』を読了しました。やっと、本当に、やっとでした。ジジェクの論考ははっきり言ってよく分からなかったですね。やはりラカンをきちんと理解しなくてはダメなのかな。でもオペラを君主・神(ジジェクは「大文字の他者」「超越者」とも表現しています)の「許し」のシステムの視覚化と捉える点は基本的に正しいでしょう。ただこれは精神分析的に導き出されるというよりも、表象文化論的に最近流行の結論ですが。 君主の「許し」は常に法を超えたところで行われる。つまり既存の国家・社会を超えた次元で「許し」は行われる。具体的には法的には許されない行為や存在が君主・神の「許し」で共同体の中に再編入される(それが道徳的に許されないかどうかは問題ではない。ともかく既存の法体系・国家体制としては許されないということ)。これによって君主は冷徹な法以上の「愛」を示すことが出来る。いわば違法だが道徳的に善で敬愛すべき君主が誕生する。しかしこれは同時に法を超えた超越的な次元に君主・神をおくことでもある。これがオペラが権力の視覚化といわれるひとつの理由である。 「ドン・ジョヴァンニ」が革命的であるのは、この「許し」を主人公が拒絶することにある。つまり超越者は超越的な立場に立てないのである。これゆえにこの作品が近代のメルクマールとなることが出来るのである。 | |
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私はお酒が大好きです。 飲み方はゆっくりと色々と飲むのが好きです。 一人よりも気の会う二、三人の話好きの人間と飲めれば最高。 人数は多すぎてはいけません。 日本酒では越後の銘酒「八海山」を冷酒で。 ワインはボルドーの「シャトー・ムートン・ロートシルト94'」。 焼酎は芋なら大体なんでも美味しくいただきます。 お金はなかったけど学生時代はいいお酒を飲みました。 教授たちが飲ませてくれたおかげです。 芸術でもなんでもそうですが、いいものを若いうちに経験できたことは財産です。 この夏は帰省したときに飲む予定がぎっしりです。 気持ちのいい仲間が集まりそうなので楽しみです。 皆様も秋の夜長に美味しいお酒をのんびりといかがですか? | |
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朝起きてベランダから外を見ると、ランドセルをしょった小学生が大挙して移動していく姿をみました。そう、今日から巷は新学期ですね。そんな節目のある生活はいつのことやら…。 さて今日は明日からの塾の準備に追われていました。新しいクラスを担当するので名簿をチェックしたり、テキストを準備したりと意外とすることが多いものなんですよ塾講師ってやつも。 ところで今月末の三連休は上手いこと都合をつけて帰省しようと思っています。就職内定の報告や今後の方針の説明をしにいかにゃならんのです。まあこういった面倒なことは昼間の内にささっと終わらせ、地元の友達と飲み歩くのが主たる目的なんですけどね。銘酒の多い地域なのでそれだけが楽しみです。 さあ、今日は少しお疲れモードなので早めに寝ます。みなさんも早めに寝ましょ。 | |